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2007年01月07日

ガルーダ・テツ 闘いの歴史 『俺的Kick生活』 【18】

第二部 『東京死闘編』

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94年12月、大阪で西日本キックボクシング連盟が設立された。
西日本キックを名乗る前は“日本格闘技キック連盟”という団体名であった。メイン・セミを北心ジムの選手中心に年2回ほど大阪府立体育館第二競技場で興行を打っていたのだが、遡ること2年ほど前(92年頃)北心ジムの主力メンバーが移籍し、日本格闘技キック連盟は風前の灯であった。
そこで奮起したジム会長連が“キックへの情熱”の下に団結し、北心ジム・豊中ジム・横山ジム・多田ジム、そして新参入の真門ジムが加わり“西日本キックボクシング連盟”を新たに設立したのである。

94年12月20日、西日本キックボクシング連盟第一回興行のメインを勤めたのは24歳の俺であった。その時の対戦相手は、当時名のあるチャンピオン連中を連続KOで撃破していたタイ国の強豪、ピーマイ・オー・ユッタナゴン。格闘技雑誌でも有名なキックボクサーT嶋・M田両選手ともKOで破っていたバリバリの選手である。
西日本キック設立第一回興行に相応しい(?)対戦相手であった。

ピーマイ.jpg

その話を、練習が始まる前に会長から打ち明けられた。
『会長、ほんまにピーマイなんて大阪来るんスか、嘘ちゃいます?』
俺は会長に怪訝な顔をして聞いた。
『アホ!何言うてんねん、お前は!来るに決まってるやろが!』
ズングリした体で会長は怒鳴った。
『せやけど、T嶋やM田とも試合したタイ人選手ですよ、西日本キックになんか来るんスかねー…?』
俺はもう一声ヤンワリと追い打ちを掛けた。
『大丈夫や、安心しとけ。』
と会長は俺を一喝した。

しかし、俺はどうしても信用出来なかった。
『こりゃあ嘘や、偽タイ人が来るで。本物なんか絶対呼べへん、いや呼ばれへんはずや。もしかしたら、そこら辺の不法就労者連れてくるんちゃうか…?』
関西キック界の数々のエエカゲンさ、アバウトさ、適当さを目の当たりにしていた俺には到底信じられるはずもなく、試合当日に対戦相手の顔を見るまで信じられなかった。
それは本当である。
まあ、そんな事に慣れっこになっていた俺には、別に苦にもならなかったのだが。
要は対戦相手が誰であっても、勝つ為に試合する事には変わりはなかった。

パンフロン毛.jpg

『おーっ、それとなーガルーダよ、お前これから西日本キックのライト級チャンピオンやからな、頼むで!』
と、これもまた唐突な話しである。
会長はフニャフニャの用紙を俺に手渡してきた。それはFAXの感熱紙であり、そこには
“西日本キックボクシング連盟 ライト級チャンピオン ガルーダ・テツ”
と書かれてあった。
FAXの送り主は北心ジムである。
『えーっ、マジっスか!?なんで俺なんスか?』
『各ジムの会長が話し合いして決めたんやがな。ガルーダだけは満場一致で決まりや。』
『えっ…?』
俺は腑に落ちなかった。

チャンピオンの認定がFAX用紙一枚で決まった。
各ジムの会長が納得した上での満場一致とはいえ、王座決定戦もしてない俺が知らないところでチャンピオンになっている…、変な話である。
『なんもコソコソするこたぁあれヘンで、お前のことは各ジムの会長や関係者が認めとんねんから。それに新しい団体設立したんや、各階級にチャンピオンも要るやろ。他の階級は追い追い決めるとして、取り敢えず設立一発目の興行や。ほんでメインやねんからなオイ、チャンピオン!頼むど!!』
会長は我がジムのチャンピオンを誇らしげに、そしていつの間にかライト級チャンピオンになったばかりの俺に言い放った。
『はぁ…。』
暖簾に腕押し気味の俺。
『それとな、今度の試合が終わったら東京で試合が決まっとるからな。』
と付け加えるように会長が言った。
『ト・ウ・キ・ョ・ウ?ってことは後楽園ホールですか!?』
俺は、さっきとは打って変わって大興奮した。
『せや、日本キックボクシング連盟と東西対決やがな。ガルーダは来年4月の予定や。』
『ホンマですか!ヤッター!俺はやりますよ、絶対やったる!!』
後楽園に上がれるんや、あの“格闘技の聖地”に…。この先も後楽園にはもう上がる機会はないだろうと諦めていたのに…。

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俺は気合いMAXでシャドーを始めた。
この時点で俺の戦績は10戦7勝1敗2分(3KO)。デビュー戦を躓いてからの俺は負け知らずであった。勢いの波に乗る俺は、いくら本物のタイ人が来ようとも負ける気持ちは全くなかった。
『ふん、何がピーマイじゃ。朝晩ピーマン喰うて、ピーマイも喰うてもうたらー!ガッハッハー!』
勝ちたくて勝ちたくて仕方のなかった日々が、まるで嘘のような変わりようであった。

そしていつの頃のことからだろうか、対戦相手の研究を一切しなくなっていた。
ボクサー時代は血眼になって対戦相手の資料を調べ、オーソドックスかサウスポーか、スタイルは前に出てくるファイターか、それとも足を使ってポイントを取るアウトボクサーか、戦績は…と、それに対する対策と研究に余念がなかったのだが、いつの間にか…である。
関西キックという環境が、俺に変化をもたらしたかどうかは定かではないが、1勝2勝3勝…、自分の練習を信じて自分自身頑張っていると、対戦相手の研究なんてしなくても、平気になってきた。
ていうか、全くしなくなってきた。
いつもこうである。
『どんなんが相手でも全然平気やがな。どんなやつが相手でもどうにでも対応したらー、ほんで俺が勝つねん!ガッハッハー!!』
とか、
『研究とかせえへんの?』
の問いには、
『研究なんてするか。せえへんのが俺の研究やがな!ガッハッハー!!』
と、まあこんな感じである。
豪快なのか〇ホなのか、天才肌なのか少し足らないのか、調子乗りなのかホントに強いのか…。この話、聞く方からすると摩訶不思議である。そして聞く人みんな間を置いて一様に笑った。

ただこの当時の俺は、自分に自信があった。
デビュー戦の負けを乗り越え、腐る事なく練習に勤しんで、
『負けとうない、勝ちたい、勝つねん、勝つに決まってんねん、絶対メイン張ったんねん…。』
と常に自分に言い聞かせ、身体がトロケそうな暑い日も、指先が凍りそうな寒い日も、俺は一人で練習をやった。
ただ、自分だけを信じて…。
サポートしてくれる人が誰もいなくたって、いないからといってその現状に甘えるというのではなく、17歳の時のように一人でサンドバックに向かい、シャドーをし、鏡に向かい縄跳びをやり、バーベルと向き合った。
その結果が7連勝である。

トロフィー.jpg

対戦相手の研究をしないのは自信であり、その自信とは日々の努力に裏付けされていた。
勿論、月・水・金の合同練習にはスパーをし、首相撲をした。横山会長は毎回、4分3Rとか5分3Rとか、息の上がるミットを俺の為に持ってくれた。
俺は常に会長のミットに全力でぶつかっていった。
『絶対負けへんど、絶対手ぇ抜けへんど…。』
会長もシンドかったであろうが、俺もシンドかった。
会長のミットに即反応し、即打ち、即蹴り返す。
それが会長に対する俺なりの礼儀であった。
フラフラになり蹴りのフォームが無茶苦茶でも、取り敢えずオモイッキリ蹴った。
『音ェ上げてたまるか…。』
練習も戦いであった。

…続く
posted by テツジム岡山代表 at 15:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 俺的Kick生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
格闘技キック連盟復活らしいですね
Posted by   at 2007年01月27日 08:24
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